バンコクで迎えた2日目の朝は、昨日よりも早い5時20分起きだった。さらにすご
いことに、6時半までに部屋の荷物をすべて片付けてチェックアウトも済ませておくよ
うに、という指令が出されていた。我々は今夜12時すぎにタイを出発するので、それ
まで荷物はフロントで預かってもらうのだが、部屋は朝ホテルを出る時点で引き払うこ
とになるのだ。うーむ本当に強行日程じゃのう。
昨日と同じくモーニングコールに起こされ、ふらふらと朝食をとりにレストランへ。
さすがにみなさんお疲れの様子だ。しかしイクチンは「腹の調子が良くないなあ」と言
いながらお代わりをしている。彼の胃袋は一体どうなっているのか。
口数が少なくなった我々はそれでも何とか全員がチェックアウトを完了し、ガイドの
ワタナさんと共にホテルを6時30分に出発した。今日はバンコクを離れてアユタヤへ
行くのだ。アユタヤはバンコクから70==北にある都市で、14世紀に建国し17世紀
に全盛を誇ったアユタヤ朝の都であり日本で言えば京都みたいなものかな、と思ってい
たら全然違っていた。アユタヤの話は長くなるので後で書くことにする。
7時に昨日一緒だった田口さんと勝股さんを拾ってチャオプラヤ川の船着き場へ向か
う。お二人とも朝から舌好調で「昨晩の取材はいかがでしたか」とか「怪しいお店はど
うでしたか」としきりに話しかけてくる。私が「いやー、とんでもない目にあいました
よ。部長あんな危ない店に行かせるなんて勘弁して下さいよ。」と言うと、コジコジが
「うるさい!危険な目にあってこそ面白い記事が書けるんだ。昼の観光は夜の仕事の御
褒美だぞ。心得よ」と相変わらずの掛け合いを演じ、すっかり旅行番組制作会社の部長
になりきっている。しかし果たしてこのお二人は我々のこの会話を信じて聞いているの
だろうか。
チャオプラヤ川は今日も波高し。アユタヤまで4時間も船の上の人になるのに大丈夫
なの。私は乗り物酔いはしない方だけど、船の揺れは別格だからなあ。修学旅行の下見
に沖縄へ行った時、波が高い中沖に出たグラスボートで(下見だから乗らなきゃならな
い)、コジコジと私はあまりの揺れにわずか5分で船頭さんに「もういいですから」と
言って引き返してもらったことを思い出した。しかし、8時に船着き場に来た船「リバ
ー・サン・クルーズ」を見て安心した。「リバー・サン・クルーズ」は100人以上は
裕に乗れる大きな豪華客船で客室は冷房完備。たくさんの乗務員が我々をお出迎えだ。
結局ほとんど揺れを感じることなく、アユタヤまでの4時間を快適に過ごせた。
さて、このチャオプラヤ川をさかのぼった4時間で我々は様々なものを見ることがで
きた。川の両岸には途切れることなく何かしらの建物が存在した。出発してしばらくは
昨日見学したワット・ポーやエメラルド寺院などのきらびやかなお寺が並んでいたし、
高層のいかにもお値段高いですよと言わんばかりのマンションがズイと建っていた。船
内に置いてあった朝日新聞国際衛星版のパンフレットによると、寝室が3つ!もある2
78==!の高級賃貸マンションの賃料は月70000バーツ(約21万円)であった。
こんな高い家賃のマンションに住むのは日本人か欧米人の商社マンであり、タイ人は間
違ってもこんなバカ高い所には住まないそうだ。
バンコク市街を完全にぬけてしばらくすると両岸には民家が並び始めた。これらの民
家はすぐに川へ降りて行ける階段を備えており、生活水はこのチャオプラヤ川の水を使
用している。洗濯、炊事、風呂の水などはすべて川の水を使う。生活排水はすべて川の
へ流す。当然トイレは天然水洗だ。その水を下流の人々が洗濯や炊事に使う。エコロジ
ーですなあ。日本人が川からとった水や生活排水を浄水場へ送って何度も何度も濾過し
てきれいにしてからトイレに流しているのを見たら、彼らはとても驚くのではないだろ
うか。
11時頃に船内でバイキングの昼食を頂く。飲み物はタイに来てからずっとシンハー
・ビールだったのでここでは「リバー・サン・ウエルカム」という名前のカクテルを頼
んだら、彼女と二人でストローを2本使ってお飲み下さい風のハデハデカクテルが運ば
れてきたので少し恥ずかしかった。食事を終えて一息ついていると、別の団体のガイド
さんが我々の席に近づいてきた。彼は日本に何度も来たことがあるらしくやたらに日本
について詳しかった。我々が東京から来たと言うと、彼は東京の何線に住んでいるのか
と尋ねてきた。中央線だと言うと三鷹ですか国分寺ですかとこれまたびっくりすること
をおっしゃる。本当に良くご存じで。しかし、私が「東京で最も新しい市・西東京市に
住んでいる」と言うとさすがに西東京市は知らなくて悔しそうだった。
両岸の景色がいわゆる田舎の風景に変わってきたころに4時間の船旅も終わった。船
から降りた我々を出迎えてくれたのは、川の水でうどんを作る不気味なおじさんとバン
コクをさらに上回る暑さだった。暑いのはしょうがない、車に揺られてのどかな田舎の
風景を楽しもうと思っていたら、迎えの車の発車直後それは無理なことがわかった。こ
の車の運転手がものすごいスピードで突っ走るからだ。我々が出発する数日前にタイで
日本人観光客を乗せた車が事故ったというニュースが流れていたが、納得だ。我々の車
が異常に速いのではなく、他の車もすごいスピードを出していてカーチェイスをしてい
るかのようだ。船酔いは杞憂に終わったが、これでは車酔いを心配しなければならなく
なる。隣のモトコさまを見たら恐怖で引きつっておられる。ガイドのワタナさんに、そ
んなに飛ばさないで下さいとお願いしたらようやくスピードを緩めてくれた(それでも
100キロ)。
車の揺れと暑さに少々まいりながら最初の目的地・バンパイン宮殿に到着した。バン
パイン宮殿は17世紀前半に建てられた宮殿で、歴代のアユタヤの王様たちが夏を過ご
す別荘として利用していたそうだ。だだっ広い敷地に5つのきらびやかな建物や池や庭
がぜいたくに配置されている。金がかかっているなあという印象だけが残る。私は、貧
乏性のせいか豪華建築物を見ると、いつもこれを建てるのにいったいいくらかかったの
だろうと考えてしまうのだ。最も強烈にそう思ったのはローマのサンピエトロ寺院へ行
ったときだった。この巨大で豪華絢爛な建物そして人々を圧倒する装飾や壁画...。
これを建てかえる為にカトリック教会は免罪符を売り人々から金を集めた。などとすぐ
考えてしまい、建築や装飾の素晴らしさを心底感じることがなかなかできないのだ。そ
んな私に今回はものすごい暑さ(37℃)が追い打ちをかけ、意識が朦朧とする中でガ
イドさんの説明を聞いていた。だから、説明はほとんど覚えていないのだが、次の話は
よく覚えている。歴代のアユタヤの王様たちは我々と同じように船でチャオプラヤ川を
上ってこの宮殿に来ていた。ラーマ5世も船でバンパイン宮殿を目指していたのだが、
あろうことかその船が沈没した。ラーマ5世は誰にも助けられることなく溺れて死んで
しまった。なぜか?それは、アユタヤでは王は誰も触れてはいけない神聖なものであり
、王に触れたら一族もろとも死刑になるという決まりがあった。だから、ラーマ5世が
チャオプラヤ川へ沈んでいくのをみんなはじっと見つめるしかなかったのだ。それは何
かそら恐ろしい光景に思えた。このことがあってから王に触れてはいけないというお触
れは撤回されたというオチがついているのだが、やれやれ..。
バンパイン宮殿の次に向かったのは山田長政記念館である。山田長政は江戸幕府が鎖国
をする直前にタイへ渡り、アユタヤ王の信頼を得てリゴールという街の太守(知事)に
までなった人で、受験にもよく登場する。当時タイには3000人ぐらいの日本人がい
たと推測され、日本人町の跡(といっても今は何も無くホントに跡だけ)にこの山田長
政記念館はある。記念館はまあ何ということはなく、日本人町や朱印船の復元模型と山
田長政記念館公認の土産物店があるだけであった。しかし、記念館のまわりの非公認の
土産物屋(当然客は日本人only)は怪しかった。例によってのぞき込んでいると、
さっと近寄って来て「安いよ安いよ。卸値卸値」と連呼する。卸値ってあんたわかって
言っているのかね。どこだか忘れたけど、ある遺跡の土産物売は、日本人だとわかると
「社長さん、社長さん」と言った後、相手の顔を見て「麻原彰晃」と言っていた。これ
ってまずいんじゃないの。誰か麻原彰晃がどんなやつか教えてあげろよ。
暑さがさらに増す中、我々は「ワット・ヤイ・チャイ・モンコン」や「ヴィハーン・
ブラ・モンコン・ボビット」といった古い寺院を訪れた。ワット・ヤイ・チャイ・モン
コンでは塔の周囲を取り囲んだ仏像がすべて黄色の衣をまとっている光景に目を見張り、ヴ
ィハーン・ブラ・モンコン・ボビットでは17==の仏像のでかさに驚き、また多くの参
拝客の信心深さに感心した。
寺巡りが終わるといよいよ今回の旅の最大イベントの一つである「象さんトレッキン
グ」だ。みのわっちなどは象に乗った写真を撮るためにタイに来たのだと言っていたほ
どである。さて車に乗って象乗り場!まで行くと、いましたいました想像以上のたくさ
んの象たちが。40頭はいたのではないだろうか。象たちはえさをもらうために同じ方
向を向いていたので少し怖いような気もしたが、象使い(みんな若いというより少年)
の指示におとなしく従っている。我々はモトコさま・みのわっち、ミスター・コジコジ
、イクチン・私のペアで象に乗った。象といっても当然サイズが違うわけで、大きい象
はゆうゆうと人を乗せられるが、小さめの象は結構つらそうに人を運ぶことになる。イ
クチンと私が乗った象が一番小さかったので、ひどく揺れた。イクチンと私は椅子にし
がみつき余裕の無い顔でゆらゆらと運ばれた。驚いたことに象は一般道路を歩くのだ。
モトコさま・みのわっち号の象使いはやんちゃで(我々は出野とよんだ)、道行く女子
学生に象で幅寄せして喜んでいる。15分ほどのトレッキング?が終わり、象たちにバ
ナナをあげ別れを告げた。
この時点で我々の体力は限界点に近づいていた。なにせ37℃の猛烈な暑さの中をぐ
るぐる回っているのである。きのうも今日も5時起きなのである。しかし、我々には行
くべきところがまだまだ残されていた。先程も書いたようにアユタヤは14世紀にでき
た王国であり、14世紀といえば日本では室町時代なのだ。そんな古い歴史がある街に
は多くの建物や遺跡があるに決まっている。ガイドのワタナさんの「さあ行きましょう
」の声に背中を押されて次の目的地に向かったのであった。
象から車に乗り換えて我々が向かった先は「ワット・プラ・スィ・サンペット」とい
う寺院跡であった。この寺はアユタヤ最大級の広さを誇る王室専用寺院で、高さ16==
・重さ171==というとてつもなくでかい黄金の仏像があったそうだ。しかし、176
7年に隣国ビルマに攻め込まれた際に破壊されてしまい、現在は苔むした仏塔(ここに
は3人の王の遺骨があるらしい)と崩れた塀と焦げたレンガが残るのみであった。この
中に足を踏み入れた途端にローマのフォロロマーノを思い出した。フォロロマーノは古
代ローマの市民生活の中心地で会合や市場が開かれていた場所で、現在は廃墟となって
いる観光地だ。フォロロマーノよりこの寺の方が歴史的にはるかに新しいのだが、ビル
マに攻め込まれたときに焼けてしまったのでレンガの焦げ具合が年月以上の古さを醸し
出している。ここに一日中ぼーっと座ってアユタヤ軍対ビルマ軍の攻防などを思い描き
たいところだが、残念ながら時間がなし、体力もない。この後、ふらふらと車に乗って
「ワット・プラ・マハタート」などを訪れたが、今となっては崩れ落ちたレンガの壁や
礼拝堂の土台が記憶の底にあるだけだ。ふと目を覚ましたら高速道路でバンコクに帰る
途中であった。
夕暮れのバンコクは相変わらずの渋滞であったが、6時には川沿いのレストランに到
着した。これがタイでの最後の食事ということになる。デッキで川風に吹かれながらシ
ーフード・ディナーを食べたのだが、徐々に暮れていく少し怪しげな雰囲気の中での夕
食となった。ビールが(モトコさまはウーロン茶を)疲れた体に染み渡ってきたころ田
口さんと勝股さんが話しかけてきた。以下はその時の会話である。
田口「いろいろお話を伺っていましたけど、皆さんは一体どのようなお仲間なのですか
?」
コジコジ「いやー。職場の仲間ですよ。どんな仕事をしているように見えますか」
田口「うーん。皆さん理系のように見えるので、コンピューター関係のお仕事かな」
コジコジ「わかります?いやー、困っちゃったな」
田口「もしかしてNECですか」
私「いえいえ、私どもの会社は親会社はデカイが(東京都)うちは子会社なもので(K
高校)恐らく御存じないと思いますよ。今回は3年間のプロジェクトが終わったのでそ
の慰安旅行ということです」
田口「そうですか。仕事のお仲間なのに仲がよろしいですね。上下関係もないし」
コジコジ「いえ、この旅行が終わったらプロジェクトは解散し、みんな異動になるので
戦々恐々としているんですよ」
みのわっち「部長。是非東京に残して下さいよ」
コジコジ「うーん、君ねえ。どうしようかなあ。荒谷君がいる長万部支社はどうかな?
」
みのわっち「ひえー。それだけは勘弁して下さい」
酔いにまかせてこんないい加減な受け答えをしていたことは覚えているが、昼の暑さ
と今までの疲労のせいか途中からは記憶が曖昧だ。イクチンやミスターがレストランの
お姉さんに「はい。あーんして」と擦り寄られ料理を食べさせてもらっているシーンだ
けは記憶の底にあるが、あれは果たして夢?まぼろし?
食事を終えた我々はふらふらになりながらも無事ホテルに到着した。この後、フロン
トに預けておいた荷物を受け取り、着替えをしてから帰途につくことになるのだが、も
うチェックアウトは終えているので使える部屋は無い。我々は交替でトイレに行き、個
室で着替えを済ませしばしロビーで呆然とした。もう少し時間があれば昨晩行った夢の
マッサージへもう一度行きたかったのだが、ホテルを出るのが午後9時とあと1時間もな
いのでそれもできない。みんなで「やれやれ。いやいや」と意味不明の言葉を言い合っ
ていると、ガイドのワタナさんが「あのー、今回の旅行のアンケートを書いてもらえま
すか」と言ってきた。ガイドさんは旅行社(今回はHIS)と個人で契約を結んでおり
、評判の良いガイドさんから声が掛かるのだそうだ。ガイドさんは客が書いたアンケー
トによりランキングされるから、我々のアンケートはワタナの収入・生活に直接関わっ
てくるのだ。通常であれば旅行社が用意したアンケート用紙に記入するのだが、ワタナ
さんはその用紙を忘れてしまったので文章にして書いてくれ、と言う。誰が書くかで少
々もめたが、結局代表してコジコジが書き、ワタナさんは日本語をしゃべれるが読むこ
とができないので、モトコさまがそれを読み上げた。ワタナさんは我々のわがままをい
やな顔をせずに聞いてくれたし、訪れたところでは一所懸命に説明をしてくれた。寺な
どが建った年号などもよく覚えているなあと感心していたら、へへへと笑って手に書か
れた年号を見せてくれた。そんなワタナさんへの感謝の気持ちをコジコジが愛情溢れる
言葉で表してくれた。モトコさまが読み終え、我々が拍手をするとワタナさんはちょっ
ぴり照れたような表情になり少し涙ぐんでいるように見えた。
9時にホテルを出て、10時にはバンコク空港に到着した。夜の10時だからそんな
に人はいないだろうと思っていたら大間違いで、ものすごい人人人!バンコク空港はい
わゆるハブ空港(拠点空港のこと。車輪のスポークが中心のハブに集まるように、各地
からの航空路が一度1カ所に集まり、そこで乗客や貨物がそれぞれの目的地に向かう飛
行機に乗り換え、あるいは積み替えられる。こうした機能を持つ空港をハブ空港と言う
=イミダス2000より)なので、世界中の飛行機と世界中の人々がバンコクに集まる
のだ。出国審査の前でワタナさんと別れ、免税店ロビーへ。この免税店ロビーがまた半
端じゃなくデカイ。一体いくつ店があるのか?延々と免税店が連なっていて、どの店も
たくさんの人でごった返している。我々は集合時間を決め一時解散したが、私は精力的
に回るエネルギーはすでに無く、近くの店をちょろちょろと見てもういいや、と思って
しまった。ただ、小銭が少し残っていたので、同じ情況のみのわっちと小銭を合わせ「
何でもいいからこの金で買えるものを探そう」と、うろうろしていると「ドリアン・キ
ャンディー」なるものを発見、購入した。この「ドリアン・キャンディー」は買ったお
土産の中で最悪の評判であったが、インパクトはある。みなさんもタイへ行ったら是非
買うように。日本では絶対売ってません。どんな味かは私の文章力では到底表現出来ま
せん。
さて、免税店に散らばった6人は再び集合し出発ゲートヘ向かった。帰りも行きと同
じくエア=インディアである。安い航空会社の欠点の一つに出発(到着も)ゲートが遠
い、というのがある。我々は長い免税店ロビーを通り抜け、さらに長い出発ロビーを延
々と歩きようやくエア=インディアの出発ゲートに着いた。定刻の深夜12時に離陸。
酒でも飲まないと寝られないよねとイクチンと話していた5分後に深い眠りについた。
離陸してから4時間後の朝の6時(日本時間)に目覚めこの旅行記を書き始めた。書
きながら、今回の旅を思い返してみた。まず、担任団の解散旅行で海外へ行けたという
のがまだ信じられない。それぞれが希望して担任になったのだが、希望した時点ではど
のようなメンバーになるかはわからなかったし、メンバーがわかってからも3年間上手
くやっていけるかは誰にもわからなかった。しかし、少なくとも私は3年間楽しく仕事
ができたし、この学年の担任団の一員であったことはラッキーであった。私の幸運は素
晴らしい生徒達に恵まれたことと、この学年の担任団の一員であったことである。我々
担任団は生徒達のことが大好きだった。それは今回の旅で生徒達の名前が繰り返し出て
きたことからもわかる。25期生は勉強も学校行事もクラブ活動も頑張って無事卒業し
たが、我々は生徒達を少しはサポートできたと思っている。そんな達成感が今回の旅を
さらに楽しくさせたのではないか。そんなとりとめもないことをつらつらと考えている
うちに朝食が運ばれてきた。 定刻の8時に成田に無事到着。エア=インディアは平気
で十数時間遅れるとガイドブックなどには書いてあるが、今回は行きも帰りも定刻に飛
び定刻に着陸したぞ。再びエア=インディア万歳!
しかし、予定通り到着したものの思わぬものが待ち受けていた。37℃の猛暑から帰
国した我々を何と1℃!という寒波が襲ったのだ。おいおい今日は3月31日だよなあ
。タイに行く4日前は桜が満開だったよなあ。と、言ってみても税関を抜けてリムジン
バス乗り場で我々の顔に吹き付けるこの寒さはやはり1℃だ。37℃の世界は快適では
なかったけれど、1℃よりはるかに幸せだったぞ。とほほほ、と肩をすぼめていたが、
ここで私はあることを思い出し空港ロビーに走って戻った。そうだ、昨日はセ・リーグ
の開幕だったじゃないか。2001年の我がジャイアンツの開幕戦はどうだったのか?
売店で手にしたサンケイスポーツには「巨人歴史的大勝!阿部大活躍」の字が躍ってい
た。私は新聞を握り締めみんなが待つバス乗り場に向かって走ったのだった。